幸か不幸か教育勅語が再び注目を集め、僕らは良い面も悪い面も含めて改めて学び直すとても良い機会を得たと思います。
教育勅語の批判には内容的なものもあるけども、公式なものとしては、昭和23(1948)年6月19日の衆参両院の全会一致で排除失効決議がなされたことがあります。
教育勅語活用に野党反発=「国会決議違反」と抗議
時事通信 4/4(火) 15:09配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170404-00000077-jij-pol
なるほど、たしかにGHQの占領下である中とはいえ、公式な決定で失効決議で廃止、とは、かなり大きな出来事です。
しかし、全会一致で衆参両院が決議する、とは、一体どういう経緯でのことだったのか、理由がいまいちぴんときません。
その経緯ずばりが、日米の公式文書および当事者インタビューが下記の書籍に淡々と記述されていました。
日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと
高橋史朗 著
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P155に教育基本法の制定 なぜ教育勅語は廃止されたのか
という記述があり、公文書に基づく経緯が記されています。
戦後制定された教育基本法(現在の改訂がなされる前のもの)は、制定に携わった人物のインタビューによれば「新しくできた教育基本法の中に教育勅語の西進は引き継がれている」と証言されています。
条文を見てもその箇所は見受けられないのですが、実は、幻の前文があり、そこに「伝統を尊重して」という文言に始まる教育勅語を反映した部分がありました。
しかし、GHQのJ.C. トレーナーという教育課長補佐がその前文の削除を命じたため、教育勅語を反映した要素が失われました。
削除を命じたトレーナーの言い分は、「伝統を尊重する」というくだりはどういう意味かを日系人通訳にたずねたところ、「封建的な世の中に逆戻りするという意味だ」という個人的解釈を付け加えてしまったため、教育基本法と教育勅語は部分的に切り離されてしまった、ということです。
しかし、教育基本法が制定された際には、まだ教育勅語は廃止されておらず、相互補完的に扱われていました。
教育基本法が制定された当時の国会議事録からみると、
“「教育勅語と教育基本法の関係はどうなのか?」という予想質問に対する文部省の答弁は「教育基本法は法律、教育勅語は道徳」となっています。道徳が土台になって、その上に法律がある。だから教育勅語と教育基本法は補完併存関係にある。”
となっていました。
ところが
“昭和23年6月19日に衆議院と参議院は全会一致で教育勅語の排除失効決議を行っています。なぜ教育勅語が廃止になったのでしょうか。”
それは、当時の文部大臣田中耕太郎の教育勅語に関する発言として
「戦争に負けたからといって教育勅語を改める必要はない。戦後も教育勅語は大事な指導理念である」
というものが、GHQの民政局に目をつけられたためでした。
GHQは当時徹底的に日本の内部の弱体化と無抵抗化を達成するための命令を無数に行っていたため、そのうちの一つとして下記の手がうたれます。
“ジャスティン・ウィリアムズという国会課長が衆議院と参議院の文教委員長を呼び出して、口頭命令で教育勅語を廃止するように命じたのです。
なぜ口頭命令かというと、指令として出すと公にわかってしまうからです。それではまずいと考えたのでしょう。口頭命令という世間にはわからないところで廃止を命じたのです。つまり、隠れた押し付けです。”
これに限らずこうした押しつけは、日本国憲法制定から始まり、無数に存在し、最近流行った映画の「海賊とよばれた男」などの石油確保に対する圧力でも分かるように、今更目新しい話ではありませんが、当然、教育勅語廃止もそうだった、ということです。
“だから、日本国民は誰も、教育勅語の廃止が占領軍による命令だとは知りませんでした。日本人が自らの手で国会決議によって自主的に廃止したものだと思ってきたのです。”
参考の追記:2017年4月11日放送のプライムニュースでその経緯が同じように説明されています。40分目、および52分目からの馳前文部科学大臣と長谷川三千子埼玉大学名誉教授のやりとりが該当部分。
完全に、日本国憲法制定経緯とやり口が同じです。
しかし口頭命令なのにどうして裏付けられたのか?
“私はそのジャスティン・ウィリアムズの文書をメリーランド州立大学にある「プランゲ・コレクション」の中から発見しました。プランゲというのは真珠湾攻撃を描いた『トラトラトラ』の原作者です。彼が寄贈した資料がメリーランド州立大学にあるのです。そこには、新聞も雑誌も図書もマンガも、検閲される前のものと検閲後にはっこうされたものがありました。また、なぜ検閲されるにいたったかを記した英文の資料がすべて含まれていました。
この「プランゲ・コレクション」は今日、日本でも公開されてみることができますが、私はメリーランド州立大学の大学院博士課程に在籍していた半年間、その「プランゲ・コレクション」を整理するアルバイトをやりました。これが私の占領史研究のスタートになりました。
そこでジャスティン・ウィリアムス文書を発見したのです。これは私のアメリカでの研究で一番劇的な発見でした。私が見つけた資料には「HRドラフト」と書いてありました。最初、HRは人名の頭文字可と思いました。しかし、HRという頭文字に該当する人物はいくら調べても出てきません。何の意味だろうと長い間考えていましたが、わかりませんでした。そのとき、ふと”House of Representatives”(衆議院)の略ではないかと思いつきました。それで「そうか!衆議院の教育勅語の廃止決議案なのだ」と気づきました。
その文書の下のほうを見ていたら、民政局のケーディスのメモがありました。そこには”Let’s go amended ink.”(修正したインクの案でいきましょう)と書いてありました。それが目に入り、修正したというのはどこを修正したのだろうとずっと文書を追っていくと、「詔勅の理念」という文字が目に飛び込んできました。 ”
結果として、ジャスティンから口頭命令を受けて、国会で教育勅語の失効排除を決議するに至ります。
しかしその決議も、あいまいさたっぷりのなんだかよくわからないもので、決議していて、実は、教育勅語そのものを断罪するような感じではありません。
「詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、明らかに基本的人権を損ない、かつ国際審議に対し疑義を【なしとしない】」
【なしとしない】という語尾、つまり、あるともいえるし、ないともいえる、うたがわしいと勘ぐられちゃうかなあ、、、ま、なきゃないでいいけど、ぐらいの言い回しで玉虫色にされているのです。
というわけで日本語ではGHQの口頭命令に対してそのまま「はい、その通りでございます」と受け入れるのではなく、決議はさせられちゃうのは仕方ないとして、内容は、全否定じゃない、というところでふんばろうとしたわけです。
ところが、GHQは決議の英訳で【なしとしない】に対応する”might”(mayかもしれないの過去形で濁す表現)を削除してしまい、「明らかに基本的人権を損ない、国際審議に対して疑義がある」と断定文にしてしまいます。
その結果、教育勅語には本来なんの法的拘束力ももともとなかったにも関わらず、憲法違反の詔勅ということになってしまったのです。
教育勅語のもともとの起草に関わった法制局長官の井上毅が山縣有朋総理に宛てた手紙の中で、「政治上の君主の命令ではなく、君主の私的な著作物である、公的な詔勅ではない」と意図を書いています。
起草にあたっては、キリスト教の教典的な戒律に近い強制的規範を書こうとした人物もいたようですが、井上毅はそれを明治天皇の名を使って国民に押し付けるようなことに断固反対し、さらに公的な命令的要素を極力排除して、社会一般の普遍的な道徳を明治天皇という権威の私的著作物、と位置付けました。
そうしたことが完全にGHQによってないがしろにされた結果、日本人自らの手で、自分達の大事にしてきた道徳規範を排除させられてしまったわけです。
こうした経緯は、教育勅語のような象徴的な文書として起草から廃止までの物証が残っているものであれば、検証が可能ですが、それが不可能なことがらも含めて、GHQは無数の圧力をかけて、日本社会全体を徹底的に弱体化し、制度や教育、住宅、言論、学術、工業などあらゆるところでアメリカに対する無抵抗化プログラムを埋め込んでいきました。
7年間のGHQ占領政策でそうした弱体化計画に特化した関連公文書だけで数万以上あり、全く逐一検証しきれていません。
効果をもたらしたプログラムもあれば、あまり意味がなかったものもあれば、やがて時が経つにつれて形骸化していったものもあれば、逆に時を経て余計に効果が強くなったと思われるものもあり、断定的に言えることはまだ多くありません。
しかし、GHQがそういう方針であった、ということは、間違いのない客観的な事実です。
全てそれのせいにしてしまっては思考停止ですが、その前提は常に頭に入れておかなければいけないことだということが、この教育勅語廃止の経緯からはっきりと理解できます。