プレゼンは、研究者になってから最も興味のある技術として、僕の中のトップをずっと維持しています。
気象研究者の癖に、最も興味あるものが気象現象やその解析技術などではなく、プレゼン、というのはあまりに不自然で我ながら不可解です。プレゼンなんて、研究成果がまずしっかりした上で、それを伝える一手段でしかないので、研究そのものより興味持つなんておかしいのは自分でも分かってるんだが。
そこで、今日から「何故研究者としての自分がこれほどプレゼンに興味を持ち続けているのか?」についての研究を始めます。
プレゼン、というものをやり出したのは10年以上前。学部4年生で気象学研究室に入り、卒論などに関わるプレゼンが最初。当時から何か、課題としてただ嫌々やる、というよりかなり前向きな興味を持って取り組んでいました。
僕の場合、当時から今に至るまで、プレゼンの内容は、スライドごとに全てセリフを書いて、それを覚えるやり方をしてきていて、「脚本を書いて、それを演じる」という感覚。かなり長い間、セリフなしでアドリブで軽く喋れたらいいのに、という憧れのようなものもあったけど、結局それをせずに今に至ります。
今では、とある本に感化されているため、「アドリブで軽く喋れたら」とは全く思っていないので、今後もその辺の捉え方は変わらない予定です。
仲間内の予行練習に向けてさえ、まず、一人でセリフ練習をしてしまう。
話すことを決めていないとまるで口が動かず、グダグダを通り越してとても惨めな気持ちにさえなってしまうことが、ハッキリしているからです。スライドだけ作り込んでいても、セリフを固めていないとまるで喋ることができなくなってしまう、従って、惨めな気持ちは嫌なのでセリフを固めて練習して、それを本番で軽くほぐしながら喋る、というのが今のスタイル。
なるほど。
まず、思い出してみて分かったこと。
アドリブで喋るのが人一倍苦手過ぎたことが、かえって、「脚本をきちんと書いて演じる」ことの楽しさを自分の中でより際立たせてきたのだな。
そうこうしているうちに、「脚本を仕上げるために足りてないパーツ」が見つかる瞬間こそが、研究のアイデアに直結していたり、研究を進めることそのものにも非常に良い影響を与えることがはっきりと体感できるようになってきた。もはや、解析が先か、プレゼンの脚本を書き進めることが先かは、ほとんどよく分からない形で僕の中では混ざり合っちゃってる状態です。
そして、そういう「演劇」を繰り返すうち、日常会話のようなアドリブ以外ではやりようのないやりとりも、よりスムーズになってきたように思います。学会では、プレゼンのときの一瞬だけでなく、数日間通して色んな研究者と有意義な日常会話をきちんとできることが、将来の成果の下地になるので、これもとても意味のあること。もちろん、私生活でも会話をよりスムーズになって悪いことは何もない。
研究を始める前の茂木耕作と、始めた後の茂木耕作は、プレゼンという行動の積み重ねを通じて、全く違う人間になっていることは確かです。
そして、全く違う人間になって一番大きな変化は、「仲間が増えたこと」。
僕にとってプレゼンは、仲間を増やすために不可欠な行為。という仮説はどうだろうか。
今後その辺も検証していこう。